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その極に達する 村上 晃一氏を迎えてINTERVIEW

2014年11月20日更新

その極に達する《1》

今回のインタビューでは、ラグビージャーナリストとして活躍中の村上 晃一氏を迎えて、箕内 拓郎選手久富 雄一選手へのインタビューをお届けいたします。

まえがき

箕内選手と久富選手は、90年代後半大学選手権で連覇を飾るほどの強豪校であった関東学院大学、そしてトップリーグ上位を独占していたNECグリーンロケッツと、長い間共に活躍してきました。
また日本代表に選ばれるなど、国内外での多くの経験を通して自分達のプレイスタイルを確立し、年齢的にもベテランとよべる今も現役として活躍しています。

今回はそんな二人が、どのようにラグビーと向き合い、自分自身と向き合ってきたかを語ってくれています。
ファンの方はもとより、ラグビーに携わる選手・学生のみなさま、これからラグビーを始めてみようかと思っている子供達にぜひ読んで頂ければと思います。
このインタビューを通して、読者の皆様に自分なりの新たな決意が生まれたり、大きな夢を持つことにつながっていただければ幸いです。

一同:よろしくお願いします。

ラグビーとの出会い

村上:お二人には別の機会で何回もお話を伺いましたが、まずはラグビーを始めた頃のことから聞ければと思います。箕内さんは小学校から?

箕内:小学校1年のときに、親がラグビーかサッカーか選択肢を持ってきて、ラグビーは土曜日の学校が終わってからで、サッカーは日曜日の朝早くにあるどうしようかなと。特に希望が無いのならラグビーでと。そこには月謝も絡んでいて、ラグビーは500円でサッカーは5,000~6,000円。

村上:10倍! 全然違う。

箕内:兄貴と同時に始めました。親がラグビーをしていたわけではないので僕も親も、ルールブックからという感じでした。

村上:ラグビースクールは、家の近く?

箕内:家の近くではないんですけど、鞘ヶ谷ラグビースクールといいまして、昔でいうところの八幡製鉄所のラグビーチームが持っているラグビースクールでした。入ってから気付いたんですけど、今で言ったら九州電力とかサニックス、コカ・コーラとか、そういうチームの人たちに教えてもらっていました。先生といっても、もう引退した人がほとんどでしたけれども、八幡製鉄所の試合があると見に行ってました。今でこそトップリーグのチームとスクールっていう関係はよくありますけど、昔からそういう環境でやっていました。

村上:久富さんは高校からですか。

久富:高校からです。親戚の兄貴がやっていたというのもあったんですけど、推薦で佐賀工業を受験したときに、面接でラグビー部に入りたいって言えば有利になるという情報を聞いて、面接のときに言ったのが始まりです。結局、勉強の推薦ではだめだったんですけど、そのときの面接官に小城先生がいらっしゃって。電話がかかってきて「もう一回受けろ」と言われ受けました。

村上:じゃあ、小城先生との出会いは面接だったんですね。

久富:はい。後から聞くと、そのときらしいです。

村上:高校入学当時は、もう体は大きかったの?

久富:そうですね、一般より大きかったんじゃないですか。体重は覚えていないですけど、家業の土建業を手伝っていたので、力はあったと思います。

村上:それで体が鍛えられたんですね?

久富:だと思います。

箕内:相撲部屋から誘われてなかった?

久富:誘われていないです。

村上:相撲の話はどこから出たの?

久富:ちょっと記憶があやふやですけど、うちの父親が相撲をやっていて、小さいころから町の相撲大会とか、どこか大学生の相撲とかに連れて行かれてました。一応、小さいころから相撲をやっていたので自分も相撲をやりたいと思ってたんですが、高校の相撲部が廃部だったのでどうしようかって。でも後々家を継ぐつもりだったので、絶対に佐賀工業で勉強しておきたいというのがあって、入学するための手段として面接でラグビーと言ったのが始まりです。

村上:家業は継いでないですよね?

久富:結局はそうです。こんなに長くラグビーをやるとは思っていなかったんで。

村上:有利だと思って「ラグビー部」って言ったら、そこに監督がいた。(笑)

久富:そうです。

高校時代

村上:高校のとき、花園も経験しましたね?

久富:2年、3年と行きました。

村上:そういう意味では、佐賀工業のラグビーはレベルが高かった。

箕内:僕の高校よりは全然上です。僕も兄貴が佐賀工業にいた関係で、練習試合してやるみたいな感じで試合をしましたけど、Cチーム、Dチームにコテンパにやられてました。

村上:箕内さんはどうして強い高校に行かなかったんですか。

箕内:僕は東福岡高校と八幡高校を受けたんですけど、東福岡の方がちょっと遠くて電車で片道30分ぐらいかかった。八幡高校は15分ぐらいなので、そっちを選びました。勉強も他の人よりできた方だったので入れたんですけど、その当時は、そこまでラグビーをやりたいという気持ちがなかった。

入学してからラグビーどうしようかなって思っていたらラグビースクールの先輩がいて、ラグビー部の部室に連れて行かれて入部することになった。その人に会っていなかったら、もしかしたらやっていなかったかもしれないです。中学の時はいい選手とか、有名な選手ではなかったし、兄貴は、佐賀工業から推薦来るくらいすごかったので、僕はいつも「箕内の弟」と言われていて、そう言われるのも嫌でした。

でもラグビーが好きだから続けてたんでしょうけど、高校、大学、その先とか、全然考えていなかったです。

村上:久富さんは、花園出たあたりからラグビーが面白くなってきた?

久富:いや、高校時代面白かった記憶はないです。

村上:1回もない?

久富:1回もないです。親からは高校1年のときに、高校2年の春にレギュラー取れなかったら相撲部屋行けみたいなことを言われてました。

村上:お父さんに?

久富:はい。たまたま2年の春にレギュラーを取れたので、そのままラグビーを続けましたが、結構いろんな分かれ道がありました。

村上:ポジションは?

久富:ずっと1番です。

関東学院大学へ

村上:箕内さんは、関東学院大学へ行くきっかけは?

箕内:高校1~2年のときに、大学どうしようかという時期にオール福岡に入って国体に出場して、たしか3位だったと思います。兄の関係もあり小城先生が間に入ってくれ、「関東学院どうだい?」みたいな感じで。一応、推薦の基準も国体の成績でクリアしていたので、春口さん(元関東学院監督 春口 廣)に会ったときにはもう、「うちに来ないか」「お願いします」という感じだった。

村上:関東学院行くって決めてからは頑張らないといけないみたいな意識になった?

箕内:そうですね。大学が決まってから、高校ジャパンに選ばれたり、変わったのはその辺からです。走ったりとかウェートしたり、1人で練習していました。

村上:久富さんは、関東学院大は推薦入学ですか?

久富:はい。自分の知らない間に決まってました。高校卒業して九電に行くつもりだったんですけど、親が、後々家業を継ぐためにも大学卒業って肩書きがあった方がいいと言うのと、関東学院から推薦が来てたり、小城先生と春口先生のつながりもあって、高校2年くらいには決まっていました。

村上:先生同士の話で決まっていた?

久富:最初「えっ?」と思いましたけど、「お前は関東学院だからな」と。たぶん先生と親の間で決めたんだと思う。

村上:そのとき、関東学院ってどういうイメージでした

久富:全然知らなかったです。ラグビーを知らないというか。

村上:あまり見てなかった?

久富:見てなかったです。練習がきつすぎて、帰ったら寝て、起きたらまた学校に行く感じだったので。

村上:じゃあ、箕内さんのことも知らなかった?

久富:高校のときは知らなかったです。

村上:どんな感じでした?そのときの箕内キャプテンは?

久富:いやもう、入ってすぐは遠い人すぎて、どんな感じか正直分からなかったです。大学の強豪校でそのキャプテンですから。

村上:めちゃくちゃ部員が多いとき?

箕内:すごかったです。僕が4年のときは160人ぐらいいたんじゃないですか。

村上:160人もいて一番上の人ってちょっと遠いですよね。

久富:そこまで余裕なかったです。

箕内:4年と1年で離れていても、久富と接した回数はたぶん多いですよ。久富は初めからAチームで試合してたので。違ったっけ?

久富:最初の試合はBチームです。次の試合からAチームでした。

村上:じゃあ、鳴り物入りの新入部員だったと?

箕内:でしょうね。当時は久富、四宮 洋平(元近鉄)、2人はすぐAチームに入れようと言っていたので。

村上:どう思いました? この1年生。

箕内:デカいのが入ってきたなって。でも、佐賀工業出身だったので体力がむちゃくちゃあったんです。3,000mをいつも走るんですけど、僕より前にいました。11分台とかで走るんですよ。なんてやつが入ったんだと。

村上:その頃、体の大きさはどれぐらいでしたか?

久富:92キロ~93キロぐらいじゃないですか。

村上:バックスよりも速かった?

箕内:全然速かったです。佐賀工業で相当鍛えられたんだなと。

村上:それで、その年いきなり優勝ですもんね。

箕内:そうですね。

久富:運が良かっただけです。

クレイグ・グリーンとの出会い

村上:初めての優勝。その、関東学院がぐっと強くなっていく頃なんですけど、どういうチームだったか教えてください。なぜ、勝っていけたのか。

箕内:なんですかね。僕の入る前年がベスト4で、1~2年のときはベスト8かベスト16。3年のときに国立の準決勝で負けて。その悔しさは、先生も僕もかなり持っていた。それで1年間やってこられたのもあったんですけど、4年の時にグリーンがコーチで入ってきた。

村上:クレイグ・グリーン?(元オールブラックス、現三菱重工相模原コーチ)

箕内:うまく先生と融合したという感じです。今までは先生が1から10まで手取り足取り細かく教えてたんですけど、グリーンは選手に考えさせるラグビーを教えていた。「君たちはもっと考えながらラグビーやりなさい」って。もちろん練習メニューとか細かいことも教えてくれるんですけど、その辺がうまく合わさって。その年は、ラグビーをやっていて楽しかったという印象はすごくあります。

村上:春口さんは技術的なことや基礎を繰り返し教える人なんですか?

箕内:そうですね。ダウンボールとか、細かい体の使い方とか。彼はラグビーに対する考え方に細かい部分があって、練習止めて遠いところからバーッと来て、こうやるんだみたいな。

村上:佐賀工業とまた全然違う?

久富:全然違いました。大学でラグビーの楽しさを知ったので。

村上:佐賀工業は楽しくなかった?

久富:たぶん卒業生みんなに聞いても楽しいってやつはいないんじゃないですか。

村上:練習がきついの?

久富:きついし監督怖いし。「やめる」って言えなくて3年間続けた感じですね、正直。

村上:関東学院のラグビースタイルが考えながら自分でできるから面白ということですか。

久富:自由だったのはあります。

村上:体育会系の中によくある上下関係とかもそんなにないですか?

久富:そうですね。本当恵まれていたと思います。

箕内:僕もそう思います。僕はゆるいところからずっと来ていて、佐賀工業の練習とか聞いただけでも吐きそうになるぐらいなので。

村上:聞くだけで?

箕内:はい。「よくこういうきつい練習やった」って言われるんですけど。僕らの高校だと、ランパス縦5往復やれって言ったら、みんなブーブー文句言ってふてくされた。

村上:5往復で?

箕内:他のチームに聞いたら3時間、4時間普通にやるみたいな。かといって、監督が「お前らこういうラグビーやれ」というのもなくて。
選手たちから「こういうのやりたいんですけど」って言ったら、「いい、やれやれ」みたいな。結構自由な感じだったので、逆に変な癖がつかなかったので、大学入ってしっかり基礎をやらされても、僕はあまり苦じゃなかったです。こういう考え方あるんだっていう、面白いなというところから入っていけたので。

村上:グリーンさんが戦い方を考えたりとか?

箕内:そうですね。当時から1人でビデオ見て分析とかやっていました。今でこそ分析って普通に、専門の人がいてやりますけど、当時部員もコーチ部屋でずっとビデオ巻き戻したりして、相手のここが弱い、じゃあ、こういう戦い方をしようとか。そういうのを細かくメモして、うまくグラウンドで選手に落とし込んでいました。

村上:まだ、日本のチームがあまりそういうことをしていないときですね。97年とか。

箕内:そうですね。

村上:昔の記事を見たら『コミュニケーション、コンビネーション、コンセントレーション』ってグリーンさんがよく言っていたというふうに書いています。

箕内:それは結構言っていました。

村上:覚えています?

久富:なんとなく3つ覚えています。

箕内:たしか3Cとか言ってました。

村上:『コミュニケーション』っていうの、これ全部試合中のこと?

箕内:試合中です。僕であれば当時、宗志(元コカ・コーラ淵上 宗志)や、剛士(元東芝 立川 剛士)と試合中に話してました。

村上:すごいメンバーですね。試合中にいろいろ情報交換しながら?

箕内:はい。フォワードの状態を聞いたり、バックスの状態を聞いたり、そういうコミュニケーションをとっていた。当時、内側から追い詰めるディフェンスをやっていて、今はもう普通にやっていますけど、このディフェンスをやるんだったら、しゃべらなきゃだめだっていうのがあった。

村上:マンツーマンとかじゃなくて、ラインディフェンスというのはそれまであまりなかった?

箕内:なかったです。だからすごい楽しかったです。

村上:『コンセントレーション』はどういうふうに使われていたんですか?

箕内:簡単に言ったら「集中」なんですけど、気が抜けていたんですかね。目の前のことに集中しろって。集中しながらコミュニケーションを取ることで、すごく良い精神状態で試合ができたんじゃないかと思う。

村上:久富さんも最前列にいて情報を聞きながら?

久富:いや、自分は1年だったので、そこまで余裕なかったです。ただ必死にやっていただけで。

箕内:逆に僕は「スクラムどうなの?」って聞く方です。「前の人間どうなの?」いける?厳しい?じゃあ、こうしようとか。

村上:スクラムを押せるか押せないかで、次のプレイが変わってくる?

箕内:いつも「押されてもいいよ」って感じでした。

久富:申し訳ないです。その当時は、スクラムが強くなくて押されながら出す練習もしていた。

箕内:やっていたね。練習で不利な状況を頭に入れておけば、試合で活かせると考えていたと思う。

村上:自由に見えても、コミュニケーションを取って緻密にやっていたということですね。

箕内:そうですね。当然ですが、現場では局面局面でコミュニケーションを取る。

村上:そこから10年間連続で大学選手権決勝に進出でしたね。

箕内:勝ってからいい選手が入り出したので、最後の年に優勝できたのは大きかったと思う。僕が卒業してからも、後輩たちは楽しそうに考えながらスマートなラグビーをしているなという印象がありました。

村上:久富さんのときも優勝していますね。

久富:はい。自分のときは今村 友基(キヤノンBKコーチ)が中心になってゲームを組み立てていて、自分はペナルティ蹴るところぐらいしか指示していないです。ただキャプテンが負けちゃだめだと思っていたので、アタックもディフェンスもスクラムも、絶対やられないようには意識していました。

村上:1年生で(大学選手権に)出てから4年間で3回優勝はすごいですよね。

久富:そうですね、メンバーに恵まれていました。

村上:あのときのメンバー見たらすごいメンバーですよね。淵上 宗志、立川 剛士、四宮 洋平、北川 俊澄(トヨタ自動車LO)とか。萩谷さん(NTTドコモ育成コーチ 萩谷 昌之)は今ここにいますね。

箕内:三宅 敬(パナソニックWTB)、山口 智史(コカ・コーラ監督)とか。

久富:山村 亮(ヤマハ発動機PR)とか。

村上:水野 弘貴(トヨタ自動車WTB)も。

箕内:そうですね。

村上:いまだにやっているトップリーガーいっぱいいますね。

箕内:そうですね。

久富:みんなベテランって言われている。

箕内:もう三宅ですらベテランって言われてるんです。

久富:そうですね。

村上:霜村君(パナソニックCTB)も引退とか言っている。

箕内:そうですね。

村上:でも強かった一番の要因は、「自分たちが考えていた」ということ?

箕内:自分たちで考えて結果を出す。そこには責任がついてくると思いますし、ちゃんとプレーしなきゃという気持ちが出るでしょうし。それを監督、コーチが信頼してくれたというのが大きかったんじゃないかなと思います。

村上:キャプテンとしては、何を心掛けていましたか。

箕内:なんですかね?僕はゴールポスト指差すくらいしかやっていないんですけどね。実際ゲームのコントロールは淵上たちに任せてたし、ただフォワードの情報はしっかり伝えて、チーム内で情報を共有しようとはしていたんですけど。

村上:逆に久富さんから見たキャプテンはどうだったんですか。

久富:箕内さんがキャプテンされていたころって、箕内さんが負けているイメージがないです。絶対に勝つというか、アタックもディフェンスも圧倒的な姿しかない。自分はキャプテンをやりたくなかったんですけど、どうせやるなら自分もそういうふうになろうと思ってやってきました。

村上:要するに自分が先頭に立って、絶対に相手に勝つみたいな頼もしいキャプテンですね。

久富:というイメージがあったので。自分がそうなれたか分からないんですけど、そうなろうと思ってやっていました。

村上:そのころはスクラムも関東学院強くなりましたね。

久富:ましにはなっていたと思います。

箕内:昔はスクラムむちゃくちゃ弱くて、僕が1年のときもそうですけど。押される練習と球を出すフッキングの練習をひたすらやっていました。押すって概念全くなかったですね。スクラムマシンを地面や壁に固定しているんです。構造的に押しても前に進まないし、そもそも押す気がない(笑)

久富:ありました。地面に埋め込まれているような状態でした。

村上:スクラムマシンが押せなくなっているってすごく面白い。だから、箕内さんボール出すのうまいんですね。ジャパンのときもボール出すのめちゃめちゃうまかったです。

箕内:それあったかもしれないですね。でも僕の1学年上の網野さん(網野 正大)は、フッキング抜群にうまいです。

村上:今、NECのヘッドコーチですね。

箕内:ピンポイントで球が来ます。だから僕は、フッカーに、ここにボールがほしいと要求します。その方がフッカーのテクニックが上がるでしょう。

村上:網野さんは押されながらでもきれいにかけるの?

箕内:うまかったです。

久富:網野さん、うまいです。

村上:関東学院でやったことは、今もベースになっているんですか。

箕内:そうですね。僕はそこでラグビー人生が大きく変わったので。1年、2年で結果が出なければやめようかなと思っていたぐらいだった。2年、3年の時に海外遠征があり海外のチームと試合したりして、海外のラグビーにも興味を持つようになったし、本当楽しかったです。